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第56話 パーティーの危機①

作者: 花柳響
last update 最終更新日: 2026-01-25 06:00:44

 インペリアル・ドラゴン・ホテルが誇る最大規模の宴会場「飛竜の間」。

 天井まで届く巨大なシャンデリアが無数に煌めき、磨き上げられた大理石の床には、日本中、いや世界中から集まったVIPたちの革靴やヒールの音が響き渡っている。

 今夜は、九龍グループが主催する年に一度の盛大な祝賀会、「インペリアル・ガラ」。

 政財界の重鎮、海外の賓客、そしてメディアの注目を一心に集めるこの夜は、CEOである湊にとって、自身の手腕と権威を内外に示すための最も重要な戦場だった。

 そんな華やかな喧騒の中、私はひとり、会場の隅で作り笑いを浮かべて立っていた。

「……すごい人」

 漏れそうになるため息を、シャンパンの泡と一緒に飲み込む。

 私の身を包んでいるのは、湊が用意したミッドナイトブルーのイブニングドレスだ。露出は控えめだが、身体のラインを美しく拾う上質なシルク素材で、背中だけが大胆に開いている。首元には、目が眩むようなサファイアのネックレス。

 誰がどう見ても、完璧な「CEOの婚約者」の装いだ。

 けれど、その中身は空っぽだった。

 昨日の朝、あの車内で引かれた「境界線」。

 『業務外の私的接触は禁止だ』

 『お前はただの雇われ婚約者だ』

 その言葉が、呪いのように私の心に張り付いて離れない。

 湊は今、会場の中央で数人の外国人投資家たちと談笑している。

 流暢な英語、自信に満ちた振る舞い、そして時折見せる、あの計算された「半笑い」。

 完璧だ。

 私と目を合わそうともしないことを除けば。

(……いいのよ、これで)

 私はグラスの柄を強く握りしめた。

 これは仕事。私は月三百万で雇われた「お飾り」。

 彼が望むなら、私は貝のように口を閉ざし、ただ美しく微笑む人形に徹するまでだ。

 あの温室での出来事は、私の傲慢さが招いたミスだった。だから、もう二度と彼の領域には踏み込まない。そう決めたのだから。

「あら、朱里さん。こんな壁際で、まるで借りてきた猫ですわね」

 鼓膜を撫でるような、甘く、け
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